建築士会沖縄研修2 2005/03/18〜20
reported by Shinji Furukawa
第二日目(3月19日)土曜日
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 7時30分起床。ホテルで食事後、準備をして10時に出発。天気は曇りだが、昨日よりは暖かい。研修会場のコリンザは12時受付開始なのでそれまでコザの街並みを見ることにする。
ホテルニューセンチュリー

今回宿泊したビジネスホテル。国道330号線沿いにあり、コザの中心地に近く周辺観光にも便利です。
ここ沖縄市は31年前にコザ市と美里村が合併して出来た市。コザと言う由来は米軍が胡屋地区の事をコザと呼んでいた事から一般の人々もコザと呼ぶようになったそうです。
空港通りから第二ゲートを望む。奥は米軍の嘉手納基地。
嘉手納基地第二ゲート

検問の人の姿はここには居ない。中には何らかの施設の新築工事で工事関係者が出入りしていた。上部の橋は高速道路。
第二ゲート検問

第二ゲートを入り、徒歩の人は右手に進む。奥には検問員と基地の人とみられる女性がいる。フェンスに有刺鉄線で仕切られた内部。日本とアメリカの境界線。
空港通り1

アメリカの影響が最も強く出ている所。日本語と英語の看板が入り交じる風景。通りには外国人がちらほら見受けられる。
空港通り2

空港通りは片側2車線。国道330号線と交差する為、交通量は多い。夜になるとアメリカンバー通りに変身するらしい。
今回の研修会場「コリンザ」

この建物の3F、沖縄市民小劇場『あしびなー』を中心に研修が行われる。
ベスト電器をメインに複数の店舗があり、中には市の文化観光課・ハローワークなどの公共施設、沖縄建築確認検査センターもある。ここにもチャンプルー(混ぜる)文化が浸透しているのかな?
コリンザから中央パークアベニューを望む

一方通行の両側に服飾店や飲食店、レコード店が立ち並ぶ。各種イベントを開催しており、空港通りと共に国際文化観光都市としてのムードが漂う。昔は栄えていただろうと思わせる雰囲気があるが今は空き店舗が多い。
中央パークアベニュー

丸く白いアーケードの屋根が印象的な通り。イメージカラーを白に統一していて、街路樹も多く南国的な雰囲気。また、昭和62年には手づくり故郷賞を受賞している。
中央パークアベニュー沿いの建物

異国情緒漂う建物。花ブロックは使用していない。
中央パークアベニューにあるタコスのお店

「チャーリー多幸寿アベニュー店」1956年創業のタコスと言えばココと言うくらいの有名店。ま、全く知らずに入ったんですが。(笑)店内には有名人の色紙が沢山あり、人気の高さを伺えます。
タコスの皮はしっとりと柔らかみがあり、たっぷりのビーフにスパイシーなソースがマッチして美味い!
コザの街並み1

派手な色なので思わず写真。個人的な趣味なのか、赤やピンク系の塗装の建物が意外と多いのに驚きます。
コザの街並み2

こちらもピンクの建物。多少老朽化が見えますが朽ち果てる課程がRC造の特徴でしょう。2Fの手摺に花ブロックが使われていますが、手摺が高さが低くないかな?上の写真の隣に建ってます。
コザの街並み3

2・3Fに花ブロックを使用。丸い花ブロックを挟んで窓の前に目隠しスクリーンとして配置。
コザの街並み4

このブロックは塀に使う事があるので見たことあります。だけど、こんなに沢山使用してるのは初めてです。道路に近いので窓をふさぐように花ブロックを配置。内部の感じは分かりませんが、ここまですると暗くないのかな?
コザの街並み5

テレビで見てイメージしていた沖縄的な雰囲気の建物。方形平屋で赤い瓦と白しっくい。
そして繋がれていない犬・・・。
コザの街並み6

この辺りで多い民家のスタイル。平屋で台風被害対策の為に周囲を塀で囲み残りを植樹したりプランターを置いたりしている。
コザの街並み7

路地空間の先に民家。都会の旗竿敷地と形は同じでも、こちらの方がいい雰囲気。しかし、間口1mくらいしか無いのに鉢植えをずらっと並べている。使い勝手としてはどうかと思う。
コザの街並み8

石敢當(いしがんとう)
街の所々にあるシーサーと同じく魔除けの目的。中国では悪鬼や悪霊は直進すると考えられている事から、その進入を防ぐ為に、主に道路がT字路になってる突き当たりに立てられている場合が多い。
コザの街並み9

石敢當(いしがんとう)
幹線道路沿いの街路樹の所にこっそりありました。パッと見は全く分からないんですが、もしかしたら、石と敢の文字の所は折れたのでは?
コザの街並み10

沖縄の量水器はブロックに設置している所が結構ある。こちらの風習なのだろうか、敷地内には設置していない所が結構ある。
コザの街並み11

呼んで字の如く。
基地の現実を街並みの中でも感じる事が出来る。爆音共闘と言う文字が感情を強く表している。
コザの街並み12

神は愛なり
正面から見るとマリア像が頭からベールをかけている様なデザイン。


昨日は気付かなかったが、コザの街中を歩いていると、ナンバーの通常はひらがなの所にYの文字。外国人が所持している車なのだが、昔は黄色ナンバーだったらしい。その名残かどうか分からないがイエロー(YELLO)の頭文字からきたのかも?
沖縄市役所

コザの街中からは少しはずれた高台に位置している。昨日見た那覇市役所よりも近代的で、悪く言えば沖縄らしさはあまり感じられない。
研究集会開会式

タイトルは「チャンプルー文化にチムドンドン」訳すると「混ぜこぜ文化に心わくわく」と言う意味。
九州各県と韓国の済州道(ジェジュドウ)から約470名が参加。済州道も沖縄と同じく、韓国最大のリゾート地。以前より沖縄建築士会と済州道建築士会は交流をしているそうで、最近では鹿児島や熊本とも交流をしているとの事。
各代表より挨拶の後、4つの分科会に分かれて研修の開始です。
沖縄市民会館

設計竹中工務店
コリンザを離れ近くの商工会議所へと移動。その向かいにある沖縄市民会館と中央公民館。屋根中央に大きなシーサーが居座る。
僕は第2分科会に参加。前半は玉城満さんによる講演。演題「チャンプルー文化」
肩書きに演出家・脚本家・芸人・笑築過激団座長。照屋林助氏に師事し、チャンプルー学の洗礼を受け、りんけんバンドにも参加していたそうです。今は沖縄で俳優・ラジオパーソナリティー・講演活動・司会業等マルチな活動をされている。
 チャンプルー文化、簡単に言うとミックスの文化。元々は一般的にも知られている料理(ゴーヤチャンプルー等)から発生した言葉であり、色々な食材を一食端に入れて炒めたモノだそうです。琉球王朝と言われる一つの国として成り立っていた唐の世から大和の世、大和の世からアメリカの世、アメリカの世からまた大和の世と言うように波乱の歴史をくぐりぬけて来た沖縄は、異文化のアクの強い部分をうまく生かしながら独自の文化を形成してきた。島であるが故に色んな要素が入ってくる中、排除するのではなく全て受け入れてそれぞれを生かす優しさを持った文化とも言える。
 約1時間の講演はの中には笑いあり真剣に考えさせる事もあり、大変為になる講演でした。その中でも特に印象に残った話を2つほど。

 沖縄は本土復帰したのは1972年5月15日。僕はまだ生まれる前の頃です。沖縄は今でもそうですが方言が特徴的なので有名です。本土復帰する前の玉城さんは小学生から中学生、学校では日本語を上手に使いなさいと指導があったそうです。つまり方言禁止。方言を使った人は、ほっぺたに「方言を使いました」とマジックで書かれた事も。ある時期は方言を使った友達にサッカーさながらのイエローカードを渡して、3枚たまると罰があったそうです。休み時間に友達に色々工夫しながら何とか方言を使わせようとして、相手があやまって使ってしまうと、嬉しくて「方言使った〜」と方言で言ってしまって結局お互いカードを貰うはめになったことも。(笑)
 ボクシング世界チャンピオンになった具志堅さんを、沖縄の人は郷土の誇りとばかりに熱狂的にテレビで応援するのだが、試合が終わってインタビューになると今まで観戦していた人達が居なくなってしまったそうだ。実は具志堅さんがテレビで方言をそのまま使ったり、少々天然な所があるものだから恥ずかしくて見てられなかったみたいです。本人は普通に喋ってるつもりでも、沖縄の人達にとっては複雑だったみたいですね。そして、96年に沖縄の前原高校が甲子園に出場した時の事。放送席に各校の生徒を一人ずつ招くのですが、その時の生徒が最初の一言に思いっきり方言を使ったそうです。勿論、アナウンサーも意味が分からず、暫く無音が続いたそうです。その時、沖縄の人達は「またやった・・・」と頭を抱えたそうですが、後に玉城さんがラジオのゲストでその生徒を招き、その時の話を聞いた所、「いや、一発ぶちかましてやろうと思いました」との返事。沖縄も変わったな〜と思ったそうです。つまり、島国根性と言うか、どこか閉鎖的な性格が見え隠れすると思うのですが、昔は恥ずかしいと思っていた方言を、今では堂々と使ってる若者を見ると最近は随分たくましくなったと思ったそうです。今では沖縄の方言もテレビ露出する事も多く、一般的にも定着していると言えます。

 次に、沖縄の長寿の話ですが。女性は相変わらず全国トップのですが、男性はちょっと順位を下げているとの事。それでも日本で比較したら断トツの長寿県だと思います。
まず、沖縄の人はすねをかじるのがうまいと言う事。親を心配させる事により親の緊張感を保つ。親があげる物は全部貰いなさいと。そして、おばあの料理は命の薬だ〜と言って料理を出す時に話す事。医食同源とでも言いますか、昔からある沖縄料理には偶然なんですが、見事なくらいに栄養のバランスがとれているそうです。更に、普段の笑いのネタとしておじい・おばあが中心になっている事。これは地域の行事ごとに積極的に参加しているからだそうです。それだけ元気なんでしょう。
 沖縄の人はよく笑うのも健康の一つだそうです。どこかの研究で片方の猫にはいつも怒ってばかりいて、もう片方の猫には笑ってばかり1週間過ごさせたそうです。そうすると、怒っていた方の猫はぐったりと元気が無く、笑っていた方の猫は元気に走り回っていたそうです。人は怒ると口から毒を吐くと言うのを玉城さんは言われてました。そして、僕達に向かって、「笑いの建築を」作って下さい、と言われました。見て笑える建物・・・正直想像が付かないです。と言うより、ガッハッハ!と笑える建築と言うよりは心がほんわか微笑む様な建築であれば想像は出来そうですが。ん〜、ちょっと難しい難題をぶつけられた様な気がします。しかし、それが長寿に繋がるような事であれば、健康住宅以上に健康住宅になりえる可能性はあると思います。

とまあ、他にも色々面白い話を聞きました。沖縄の原点がインドネシアで、料理のチャンプルーが・・
インドネシア(チャンポー)→沖縄(チャンプルー)→長崎(チャンポン)→東京(チャンコ)と変化してるのでは?沖縄では昆布は生産出来ないが、消費量は日本一だと。これは豚肉も日本一の消費量なんですが、二つの食材の相性がそういう結果になっているとか。全国各地に民謡は存在しているが、沖縄の民謡は毎年100曲以上の新曲が出ているとの事。チャンプルーとは常に変化し続ける文化だと言うことも。とにかく面白い話が多かったです。玉城さん有難う御座いました。
商工会議所を出て、バスに乗り込む。後半はコザの街並みを基地を中心に見ていく事に。
沖縄市は約13万人(外国人約2万人を含む)面積は約49km2。九州の同じくらいの人口の都市と比較しても敷地は約半分以下の中に密集している。その内の約36%は米軍基地が占めている。つまり、日本人の住む敷地は米軍の1/3しか無いという事。米軍基地内にある住宅は殆どが平屋で広い庭がついている。標準的な住宅は3LDKそうです。
北中城村 リージョンクラブ

在沖米軍司令部前にあり、昔は将校用クラブだった様です。本土復帰の際に地主の方は、復帰後も変わらず基地の施設として利用をし続けるものと思っていたそうなんですが、復帰数ヶ月後に防衛施設庁から復帰前に返還になってるという旨を突然知らされ、ならばと、米軍側に工作物の撤去と原状回復を要請したのですが、復帰前の返還は原状回復の義務を負わない事、結果的に施設はそのまま残ってしまったそうです。なので現在も営業を続けているそうです。
ここの隣にパチンコ店も併設していますが、営業時間が朝9時から夜12時までと、パチンコファンには堪らない環境でしょうか。
屋宜原米軍住宅地区1

米軍の住宅は基地内だけでなく一般の地域にもあります。ここは眺望型のタイプで庭も広く犬も飼い放題・・・。
大きな犬が2匹居ました・・。
屋宜原米軍住宅地区2

ここ一体の住宅は地元の建設会社が建設し、米軍に提供しているそうです。やはり平屋で白の建物が多いです。
屋宜原米軍住宅地区より都心を見る

写真中央は泡瀬ゴルフ場。奥は沖縄市街。夜景スポットとしても有名な場所。
旧シャラトンホテル跡地

工事が途中で頓挫した所を改装工事しています。EMウェルネスセンター(スパ・サウナ・酵素風呂・エステ・アロマテラピー・中国医療等・代替医療及びリフレッシュ機能を組み合わせた、総合的なリラクゼーション宿泊施設)として生まれ変わる予定だそうです。
プラザハウス

設計者:シューベック
本土復帰以前は米国人専用のショッピングセンターとして営業していたが、復帰後の現在では観光客で賑わう。店舗前の広い通路と雁行状に連なった深い庇は米国のショッピングセンターを思わせ、道路側より印象的に写る。内部はほとんど変わったが、外観は建設当時の面影を残している。
プラザハウス内部1

ショッピングセンター内部の吹抜下にあるバリ風のデザインのカフェ。
プラザハウス内部2

木製の両開き自由扉が南国的な雰囲気。床から7〜8cmは上がっている。これだけの扉なのに小さい取手が可愛い。でも、ちょっと重たそう・・・。
コザ民衆蜂起について

 恐らく、40代以上の人しか知らないであろうこの事件は、沖縄県民の米軍に対するエネルギーが爆発した一つの事例であろう。当然、僕は知らないし、これを知った時はそれまでの賑やかな空気が一変するくらいのショッキングな出来事だと思った。

 1970年12月20日、米兵運転の乗用車がコザ市内で民間人をはね怪我を負わせた。事故処理にあたったMP(米軍の警察)は被害者を放置したまま米兵を釈放しようとした。この事故を目撃し、なりゆきを見守っていた付近の住民は、このやり方の憤慨しMPと加害者を取り囲んで抗議した。MPは「立ち去れ」と命令したが住民は増える一方で、集まってきた十数人のMPが威嚇発砲した。この行為が住民の怒りを爆発させた。
 民衆は「ヤンキー・ゴー・ホーム」と叫び、止まってる軍用車・MPカーをひっくり返し、火を付けた。次々と来る米軍車両を止めて、米兵を引っ張り出し車を焼いた。山里−中の町−胡屋十字路−空港通りそして嘉手納基地ゲートまで2km以上の道路で炎上した車は70台以上、これは全て黄色ナンバー(米人車両)であって、住民側の略奪や暴行は一つも無かった。この民衆蜂起は計画したものではなく、指導者もおらず、その場のなりゆきで行動したものである。ただ、無秩序な行動では無く、日頃から溜まっていた米軍の不当な支配と横暴に対する反撃であった。
 この出来事は県民の大きな共感をもって迎えられた。誰しも「とうとうやったか」と叫ばずにはいられなかった。現場に居合わせた者も報道によって知った者も、悲憤と感動を共通にした。歴史的な瞬間を生きているという実感があった。
(沖縄国際大学教授 安仁屋政昭  コザ民衆蜂起より抜粋)

 あれから30年以上経っているのに、米軍と住民の関係は何にも変わらないんだな。正直な感想である。報道で聞くだけでも米兵による治外法権的な事件はしょっちゅう起こってる。ましてや報道されない事件も多数あるそうだ。毎日のように市関係者・沖縄県警関係者が米軍基地に出入りしているそうだ。これではまたいつ民衆蜂起が起きても仕方ないのではないか?昔よりは近くなったと思う外国人との関係も、こうした経緯を見ると希薄なような気がしてならない。結局、沖縄は米国によって支配されているのではないのか?市の3割以上も米軍に取られ、狭い地域へ追いやられたコザ市民・沖縄県民の気持ちを考えると悲哀の意を持って迎えるしかない。しかし、住民は明るい。この話をしてもそんなの何処吹く風〜と言った感じで接してくれる。「そんなの分かってる、分かった上で前を向いて生きてるんだ」と逆に励まされた気がする。ただ、その現実を少しでも多くの人が知る事が、彼らにとっての一番の励みになるのかもしれない。
研修終了挨拶

お昼からあっという間に終わった感じがする。各分科会の報告を聞いてみてもやっぱり第2分科会を選んだのは、沖縄の歴史を知る上で正解だったかなと思う。
 研修も終わり、懇親会会場へ移動。
沖縄こどもの国の中に設置されていた会場は、せっかく沖縄に来られたんだから気持ちのいい外で、と言うことで野外立食バイキング。しかし、夕方になるとさすがに肌寒く、お酒を飲んでる人はポッカポカかもしれないけど、僕はひたすら食べる事に。が、少しチャレンジしてオリオンビールを少し頂くが、あえなく撃沈。その後、各県の余興や沖縄民謡カチャーシーを踊り、賑やかな一時を過ごす。今日はちゃんと歩いて帰れました。(^_^)v
しかし、昨日今日とかなり歩いたので、ひどい腰痛。明日はレンタカーを借りるからまだいいかな〜。
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